希望のつばさ   プロジェクト

2016年8月 原発事故・福島県南相馬市 スタディツアー報告
A南相馬市の職員・保健師、   大石万里子さんのお話

今回のスタディツアーでは、南相馬市に到着するとすぐに、南相馬市の職員で保健師である大石万里子さんからお話を聴かせていただきました。



福島県に向かうバスの中で、数名の福島県民の想いが語られたビデオメッセージを見せていただきました。
その中には、原発事故当時、保健師として勤務していた方で、家族の命と健康を守るため、やむを得ず避難することを選択した方がいて、同僚や助けを必要としている市民を置いてきてしまったことに胸を痛めた経験が語られていました。

今回、お話をいただいた大石さんは、原発事故発生時に南相馬市に留まり、支援を続けた立場でした。

原発事故が起きた時、市の職員は、同時に家族をもつ被災者でもあり、そこに留まるのか、避難するのか選択が迫られます。そのどちらを選んだとしても決して間違えではありませんが、避難しないという選択をして職務を果たした大石さんのお話は、淡々とした口調の中にも強い意志を感じました。


南相馬市は、平成18年に、市町村合併によって、原町市と相馬郡小高町および鹿島町が合併して誕生した人口66000人(平成23年)の自治体。
2011年3月11日の東日本大震災による津波の被害を受けるとともに、福島原子力発電所事故により、市内の一部は原発から20キロ圏内となり住民は突然の避難を余儀なくされ立ち入りが制限された。また、原発から20キロ以上30キロ未満の事故当時に屋内退避指示がでた場所、30キロ以上離れた場所が1つの自治体の中に混在しています。


川崎市から18名が参加しました。


大石さんは、説明のスライドの中で、原発事故直後の南相馬市の状況を「陸の孤島」と表現していました。通常の自然災害であれば、様々な援助物資や人材がすぐ支援に入ってきます。しかし、原発事故の場合は、なかなか外部からの支援が入ってこない。それどころか、食料など必要なものも届かず、市民を助けるはずの市職員や医療・福祉・介護の関係者の一部も避難してしまい、残された「逃げない」「逃げられない」市民が味わった孤独。
情報もなく、先が見えないなかで踏みとどまって活動された方の勇気を尊敬します。


震災、津波、原発事故でたくさんの犠牲者が出たそうです。
職場の同僚で、三ケ月前に建てたばかりの家が流された人もいたそうです。


大石さんは、原発事故から数年は、とにかく無我夢中で活動してきたようで、みんなが怒りっぽい雰囲気でハイテンションだったと振り返っていました。
市民から職員がおこられ、つらい想いをしたことも何度もあったと話します。
一方で、南相馬市に居ながら、海側の津波で被災した地域を何年も見に行くことができなかったそうです。


現在の「つらいこと」として、「誰もが疲弊気味で、同じ思いの共有のための体力がないように思えること」、「この地域の震災による被災状況には差があることから同じ想いを共有することがとても難しいこと」と話されていました。
福島県の他の地域でも、県民全体が原発事故の被害者でありながら、原発からの距離によって補償額に大きな差があり、道1本の違いで格差が生じて、福島県民の中に対立と分断が持ち込まれている話をよく聞きます。


写真は、放射性物質による汚染で子どもが外遊びできない福島の現状の中で、屋内に安全に遊べる砂場を整備したことを表現しています。
大石さんは、困難な中でも、市職員・保健師として、市民、子どもの健康と命を守るために、できることにとりくんでいくと決意を語っていました。


大石さんは保健師としての原発事故から5年の活動や状況の変化を7ページの報告書にまとめています。
ぜひ、ご覧ください。

報告書をダウンロード(PDF形式) 保健師ジャーナル 大石万里子さん報告
※準備中です。近日公開

(準備中)









@常磐自動車道、国道6号線と福島原発事故

→A南相馬市の職員・保健師の大石さんのお話(現在のページです)

【以下、近日公開予定。作業中です】

→B浪江町請戸浜等の視察

→C南相馬市立総合病院の金澤委員長のお話

→D農家民宿いちばん星と除染研究所の高橋さんのお話

→E南相馬ソーラー・アグリパークの視察

→F食彩庵とサイエンスラボ・斉藤さんのお話

→Gソーラーシェアリングの見学

→H【まとめ】私たちは福島原発事故とどう向き合うべきか